教えて!住まいの先生
Q どうして日本の中近世には,馬車が発達しなかったんでしょう?
江戸時代なんか,伊勢参りに馬車があったら,江戸市民も随分便利だったと思うんですが…
「思いつかなかった」ってこともないように思うんですけど,どうしてなんですかね?
「思いつかなかった」ってこともないように思うんですけど,どうしてなんですかね?
ベストアンサーに選ばれた回答
A
回答日時:
2015/5/20 03:09:50
確かに江戸幕府、などといった組織がそうした傾向を促進した場合はあったかもしれません、が、それが元ではありません。
要するに、日本の立地、気候、その他が、「車輪」というものの利用を阻んだからです。
実は、人類にとって、「馬車」の歴史は「騎乗」よりも古いんです。
正確には「古代戦車」「チャリオット」って奴なんですが、これは、「鞍」「手綱」「鐙」といった騎乗道具が発明される以前からありました。
ところがこの「戦車」は「騎兵」が登場すると、あっという間に廃れてしまいます、というのも、「車輪」が使える地形というのが本当に少なかったからです。
例えば、中国やエジプトにしても、黄土平原や砂漠というのは意外と土地が固いし雨も少ないから、川の周辺を除けば山なんかも古い造山地形が多いから、それなりに動けるんです。
ところが、日本は、新しい造山帯で地形が複雑だし川も多い、何より雨が多くて河川幅の増減が著しい、おまけに地震、津波、火山となんでもこいなのは、特に近年では実感できるところではないかと思います。
だから、日本では古くから水上輸送が進歩したのです。
後の菱垣廻船や樽廻船みたいに、江戸時代には北海道産の昆布を沖縄で大量消費するような文化が栄えたのです。
また、関東、濃尾、大阪といった平野はかなり奥地まで河川水運で遡上できたし、街道にしても大河河口部では溢水地帯を避けて海上輸送を使うのが当たり前だったのです。
わかりやすい例で言うと、現在の千葉県などの旧名、上総、下総は、陸伝いで考えると下総の方が京都に近くなってしまいますが、かっては東京湾沿岸は旧利根川の河口などで通過が困難で、よって街道は相模から湾を渡って房総半島へ行っていたのでこうした順序になっています。
こうした事情が変化していくのは、明治になって車輪が地面にめり込むのを防止する設備=「鉄道」が完成してからのことで、しかも、全国規模での線路網が通るのは明治も後半だし、さらに、現代に近い路線が整備されたのは昭和になってから(例えば丹那トンネル:昭和9年とか)、しかもそれは日本の鉄道技術がトンネルや橋梁については世界一になってからのことでした。
ましてや、まともな全国道路網ができるのは昭和40年代なのです。
わかるでしょうが、「車輪」というのは「接地圧」つまりは単位面積当たりの地面にかかる重量というのが大変上昇するので、それに耐えるだけの地面の硬さがないとえぐれてしまいます。
これは、地盤が固い地形で雨も少なければ自然に固まってしまう場合さえありますが、日本のような気候では全く期待できません。
実際、日本の多くの峠道は、近年の舗装技術が使えるようになるまでは、路面保持のため車両通行禁止でした。
何より本州の山地では、どんなに道を選んでも10%を超えちゃうような急傾斜の道、まるで登山道になってしまうのを何度も通路を作り直して今日になっているのです。
中央道を通って行くと、江戸時代の旧道、最初に通された中央本線、そして現在の路線と中央道が並んで通っている、なんて場所がいくつもあります。
ちなみに、東海道で最初に都市間を車輪で行き来できるようになったのは、「京都~大津」だとされていますが、これは全線に渡って切り石を並べることで「舗装」してやっと実現したもので、完成は1804年です。
しかもこれは、大阪湾~淀川の水運~京都と、大津からの琵琶湖を使った水運を繋ぐため、という目的があったからこそ実現したものです。
ともかく、そうした特別なメリットがないと「車輪輸送」は、都市周辺だけ行っても、その間の積み替え賃だけでとてもペイしなくなってしまいます。
例え大八車を使えるエリアが多少あっても、輸送料金からすれば、そこもそのまま馬の鞍に乗せて運ぶ「駄載」の方が安くなるのです。
これは後に、明治になって北海道開拓が始まると、比較的平坦地を輸送路に使えるのですが、それでも馬車は使えず「ばんえい」というソリを使った輸送が多用され、その伝統が現在まで残る「ばんえい競馬」なのです。
このばんえいは、道路事情の悪い大陸では、日清、日露はおろか日中戦争時まで軍用輸送で活用されています。
また、ともかく日本は川の季節変化が極端でしかも変化が急激なんで、本当に橋梁建設が大変なんです。
なにも橋がなかったのは大井川だけじゃあありません、中にはかっては橋があったのに、江戸中期から岸がえぐれて橋が維持できず「渡し」に変更になったなんて川も有ります。
ともかく、以上のようなことから、日本での都市間輸送での「馬車」の利用はとてもコストが合いません。
だから、お伊勢参りもお金持ちは馬を雇います。
要するに、日本の立地、気候、その他が、「車輪」というものの利用を阻んだからです。
実は、人類にとって、「馬車」の歴史は「騎乗」よりも古いんです。
正確には「古代戦車」「チャリオット」って奴なんですが、これは、「鞍」「手綱」「鐙」といった騎乗道具が発明される以前からありました。
ところがこの「戦車」は「騎兵」が登場すると、あっという間に廃れてしまいます、というのも、「車輪」が使える地形というのが本当に少なかったからです。
例えば、中国やエジプトにしても、黄土平原や砂漠というのは意外と土地が固いし雨も少ないから、川の周辺を除けば山なんかも古い造山地形が多いから、それなりに動けるんです。
ところが、日本は、新しい造山帯で地形が複雑だし川も多い、何より雨が多くて河川幅の増減が著しい、おまけに地震、津波、火山となんでもこいなのは、特に近年では実感できるところではないかと思います。
だから、日本では古くから水上輸送が進歩したのです。
後の菱垣廻船や樽廻船みたいに、江戸時代には北海道産の昆布を沖縄で大量消費するような文化が栄えたのです。
また、関東、濃尾、大阪といった平野はかなり奥地まで河川水運で遡上できたし、街道にしても大河河口部では溢水地帯を避けて海上輸送を使うのが当たり前だったのです。
わかりやすい例で言うと、現在の千葉県などの旧名、上総、下総は、陸伝いで考えると下総の方が京都に近くなってしまいますが、かっては東京湾沿岸は旧利根川の河口などで通過が困難で、よって街道は相模から湾を渡って房総半島へ行っていたのでこうした順序になっています。
こうした事情が変化していくのは、明治になって車輪が地面にめり込むのを防止する設備=「鉄道」が完成してからのことで、しかも、全国規模での線路網が通るのは明治も後半だし、さらに、現代に近い路線が整備されたのは昭和になってから(例えば丹那トンネル:昭和9年とか)、しかもそれは日本の鉄道技術がトンネルや橋梁については世界一になってからのことでした。
ましてや、まともな全国道路網ができるのは昭和40年代なのです。
わかるでしょうが、「車輪」というのは「接地圧」つまりは単位面積当たりの地面にかかる重量というのが大変上昇するので、それに耐えるだけの地面の硬さがないとえぐれてしまいます。
これは、地盤が固い地形で雨も少なければ自然に固まってしまう場合さえありますが、日本のような気候では全く期待できません。
実際、日本の多くの峠道は、近年の舗装技術が使えるようになるまでは、路面保持のため車両通行禁止でした。
何より本州の山地では、どんなに道を選んでも10%を超えちゃうような急傾斜の道、まるで登山道になってしまうのを何度も通路を作り直して今日になっているのです。
中央道を通って行くと、江戸時代の旧道、最初に通された中央本線、そして現在の路線と中央道が並んで通っている、なんて場所がいくつもあります。
ちなみに、東海道で最初に都市間を車輪で行き来できるようになったのは、「京都~大津」だとされていますが、これは全線に渡って切り石を並べることで「舗装」してやっと実現したもので、完成は1804年です。
しかもこれは、大阪湾~淀川の水運~京都と、大津からの琵琶湖を使った水運を繋ぐため、という目的があったからこそ実現したものです。
ともかく、そうした特別なメリットがないと「車輪輸送」は、都市周辺だけ行っても、その間の積み替え賃だけでとてもペイしなくなってしまいます。
例え大八車を使えるエリアが多少あっても、輸送料金からすれば、そこもそのまま馬の鞍に乗せて運ぶ「駄載」の方が安くなるのです。
これは後に、明治になって北海道開拓が始まると、比較的平坦地を輸送路に使えるのですが、それでも馬車は使えず「ばんえい」というソリを使った輸送が多用され、その伝統が現在まで残る「ばんえい競馬」なのです。
このばんえいは、道路事情の悪い大陸では、日清、日露はおろか日中戦争時まで軍用輸送で活用されています。
また、ともかく日本は川の季節変化が極端でしかも変化が急激なんで、本当に橋梁建設が大変なんです。
なにも橋がなかったのは大井川だけじゃあありません、中にはかっては橋があったのに、江戸中期から岸がえぐれて橋が維持できず「渡し」に変更になったなんて川も有ります。
ともかく、以上のようなことから、日本での都市間輸送での「馬車」の利用はとてもコストが合いません。
だから、お伊勢参りもお金持ちは馬を雇います。
回答
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A
回答日時:
2015/5/5 19:45:28
それは幕府の政策によって意図的に禁止されていたからです。
確かに石などで舗装しない道では馬車は使いにくいのですが、では道路整備して馬車を走らせるかというとそれは許可されません。
輸送力を軍事に転用する危険を未然に防止する為ですね。
寛政の改革のとき、儒学者の中井竹山が馬車の使用許可を老中松平定信に提言したことがありますが定信は江戸の防衛の為に宜しくない、
飛脚や馬子や廻船業者に多数の失業者が生まれる。
大名の参勤の移動が簡便になり散財の効果を失う。
の三点を理由に拒否しています。
幕府の【利便性より治安重視】という姿勢は徹底していて、
街道上では大八車の使用も禁止です。
確かに石などで舗装しない道では馬車は使いにくいのですが、では道路整備して馬車を走らせるかというとそれは許可されません。
輸送力を軍事に転用する危険を未然に防止する為ですね。
寛政の改革のとき、儒学者の中井竹山が馬車の使用許可を老中松平定信に提言したことがありますが定信は江戸の防衛の為に宜しくない、
飛脚や馬子や廻船業者に多数の失業者が生まれる。
大名の参勤の移動が簡便になり散財の効果を失う。
の三点を理由に拒否しています。
幕府の【利便性より治安重視】という姿勢は徹底していて、
街道上では大八車の使用も禁止です。
A
回答日時:
2015/5/5 19:00:01
全く同じ質問をしたことがあります。
日本は、高低差が大き過ぎて、車輪の乗り物には、適さないそうです。
ひとつの比較的平坦な町なら、大八車などは、行き来していました。
牛車は、平安からありますから、発想と実物は、とっくにありました。
日本の道に適さなくて消えていったということのようです。
日本は、高低差が大き過ぎて、車輪の乗り物には、適さないそうです。
ひとつの比較的平坦な町なら、大八車などは、行き来していました。
牛車は、平安からありますから、発想と実物は、とっくにありました。
日本の道に適さなくて消えていったということのようです。
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